たとえば、自分のビジネスを大きくして、将来大金持ちになり、それで家族を楽にしてやろう、そのためにいまは家族との時間を犠牲にしても頑張る、というならまだわかる。しかし、そういうビジョンもなく、一生サラリーマンとして安月給に甘んじながら労働時間だけ長いというのは、本人たちには気の毒だが、滑稽としかいいようがない。
J: あー 自分に自信がないけど下手なプライドは高いってやつですね。

京: 心に刺さりますが、おっしゃる通りです。

J: でもそれは当たり前の話なんですよ。
下手なプライドと自信を足した総量って一定なので、自信がつけば下手なプライドも自然に減っていくんですよ。逆も真なりで。

仕事を通じて、「成功者」と言われる方々にお会いする機会が比較的多いが、成功者の多くは「謙虚」である。
凡人であると、人から「成功の秘訣」を聞かれると、ついつい「自慢話オンリー」になってしまう。
「自慢話」は、得てして「傲慢で驕りのかたまり」になりがちだ。
そうなってしまうと、聞いているものからすれば「成功して良かったですよね。でも、これから先、この方は、自分の成功体験をよりどころにしているけど、それで成功していけるのかな?」と感じる時がある。

しかし、賢人は「成功の秘訣」を語るにしても、「謙虚」である。
つまり、「成功した理由をきちんと分析して、改善し、次の行動に活かす」ことをしている。また、他人との会話の中からも、「自分にはない発想」や「自らのいままでの行動に対する反省」を絶えず思考しているのがわかる。
「賢人」は、「新たにひとつでも学び、気づき、バージョンアップするべきところはないだろうか」と思考が常に前向きで、謙虚なのだ。

しかし、自分がどんな仕事をしなければならないのか?どんな仕事に責任があるのか?がはっきりしていない日本の横綱役員様たちに置かれましてはご自分の保身にウェイトが偏っているようにも思えます。すると必然的に「ねぇ、明後日のスケジュールどうなってる?」とか「あれ、どうなってる?」と美人秘書にイチイチ聞かなければならなくなるのだ。

で、自分の責任を果たすためのお助けツールとしてグループウェアがある。スマートフォンとはそのグループウェアのUIのひとつに過ぎなくて、オフィスにいなくても管理が出来るツールでしかないのだ。かつて僕の先輩が、

本当はGoogle Appsなんて使えなきゃいけないのは当たり前で、本来使えない人たちは会社をクビになってなきゃおかしいんだよね と言っていてその通りだと思った。

私は以前、師を仰ぐ方から「部下に話をする時は、昨日はじめて理解出来たことでも百年前から知っていたような顔をして喋れ」と言われたことがありました。自分がアップルで管理職をしていた間、もっとも役に立ったアドバイスはこの一言だったような気がします。
1) 自分が生まれる前からすでに世の中にあるものは、すべてごく普通のものである。
2) 生まれてから30歳になるまでの間に発明されたものは、すべて途方もなく刺激的で創造的であり、運が良ければそれが一生の仕事になる。
3) 30歳以降に発明されたものは、すべて物事の道理に反していて文明の終末の予兆である。
幼稚園の”ボスママ”に悩まされていたあるお母さんたちの話です。なぜ内心望んでいないにも関わらずみんなボスママに従うべきという規範がお母さんたちの集団の中に生まれてしまったのか。一見ワイドショー的なこの問題の根底には<我々一人一人が損得の自己利益に基づいて選び取った行動の結果として社会・文化が出来上がる>という人間社会の構造が隠れています。
 社会規範が維持される上で<罰>は非常に重要な役割を担っていますが、自己中心的なふるまいが罰せられる国もあれば、逆に集団のための自己犠牲をとがめだてする国もあり、是とされる規範は決して一つではありません。そもそもなぜ、他人が規範に従っているかを気にかけ、規範を破った人にコストをかけてまで罰を与えようとするのかもよく分かっていません。こうした社会の中に潜む規範が生まれてくる仕組みを実験や数理モデルを用いて理論と実証の両方からアプローチしています。

 もし自分の生まれ育った環境に「多様性」があって、本を好きなだけ読んでも誰も文句を言わないどころか嫌味一つもなく「本が好きなんだね」と認められる地域だったらどんなに楽しかっただろうか。スポーツを押し付けられることもなく「苦手なんだね」で済んでいたらどんなに楽しかっただろうか。一生懸命やる人を馬鹿にしていじめる人が少ない地域だったら、あの人は今頃何をしているだろうか。「マイノリティ」を無意識に排除し続けた結果と選択肢の貧困さががつまるところの「マイルドヤンキー」なのではないでしょうか。

 現在ずっと地方に残っていて連絡を取ろうと思える友達はいません。どこかよその土地で修業をして帰ってきて「やっぱりこの街はクソだよな」と愚痴をこぼし合う友達くらいでいいかな、と思っています。

他者の判断に「意味がわからない、バカじゃないの」といった感情を抱いたときこそ、学習のチャンスです。自分がそうした他者と全く同じ立場にあれば、同じ判断をしたかもしれないという前提に立つことこそ、謙虚さの定義だと思います。

その上で「その判断を合理的なものにできる情報」を、自分が知らないだけかもしれないという「不安」を持つべきでしょう。その「不安」を心のどこかにしまっておくからこそ、僕たちは、自分とは関係のない分野についても「知りたい」という欲求を持てるのだと思います。

みんな、そんなにバカじゃないです。今を生きている人は、37億年とも言われる生命の歴史を勝ち抜いてきた命なのです。自分には理解できない、他者の判断の背景には、知恵の鉱脈がある(かもしれない)ということを意識する必要があります。

ここまで書いてみて気が付いたのですが、これ、要するにソクラテスのいう「無知の知」ってやつですね。この世界で起こることを「意味がわからない」と切り捨てることなく、「自分は知らない」という態度を貫きたいものです。
そもそも,企業でもお役所でも政府でも,あらゆる組織がダメになるのは「本当のことを言う」という1点が守られていないからで,実はそれこそが組織にとってもっとも重要なことなのだ